漸く。
舞台『染、色』を目にすることができました。
染、色への想いは書き始めてしまうとキリがなくて、本題に全く辿り着かないので、舞台に対しての感想だけ書き連ねていきます。
ただ言語化出来るかは分からない。このなんとも言えない感じを100%言葉にするのは出来なくて、でもこのもやもやが心に残るのを含めて加藤さんの書くものと思っているので、存分にもやもやさせていただきます。
まず原作である『染色』を読んだ上で観劇しているので、それを踏まえての気になった点です。ちなみにパンフレットは未読なので読んだらまた変わるかも。(パンフレットの正門くんの写真めちゃくちゃ良くて最高だったし、3者対談があるのは知ってたんだけど、後ろに普通に加藤シゲアキのページあって慌てて閉じた ありえん顔良くてシゲに引っ張られるとこだったので閉じた 本能が感じた危険)
▪︎市村と美優、深馬と真未
染色の舞台化にあたって役名が一新されているので、まさに染色であって染色ではない物語なんだけど、ベースは染色なので、ふたつの世界を綱渡りしながら観ていました。
まず、観劇前にパンフレットをパラパラした時点で、どうしてグラフティするのを深馬くんにしたんだろうなぁと、そこは気になってて。
まず、「女の子ってこんな子だっけ…?」となった。終演後に口にしてる人もいたので、原作を踏まえて見ている人は多分みんな思うんだろうな。
市村と深馬は似ているけど、美優と真未は全然違うな…と。これは序盤で分かりやすく気になるところよね。
考えてみると美優と深馬は半分リンクしていて、
美大生、作品を完成させられない、グラフティをする、作品の続きを描く人間(美優にとっては市村、深馬にとっては真未)と出会う……
まぁグラフティに関しては自分に制約を付けることで作品を完成させようと意識している美優と、自分の作品であると責任を負う必要のないものとして書いている深馬では違うとも取れるんだけど、美優が「描きあげられない」のもじつは深馬と同じ理由だったのでは…とも思うのであって…
とここまで考えて思う、あれ、美優と深馬…名前似てるね…
深馬は市村でもあり美優でもあるのかなぁと。
あと名前の話で言うと「真未」「深馬」「ま行だらけだね」のところ、うわ〜っぽい〜!って思ってしまったのは私だけ?
で、これもまた考えてみると真未、まみ、みま。みうま。「う」がなにか2人の関係を象徴する意味を持っているのか… う、u、you… 逆さま、反転… 諸々の学問に精通していればまだ考えられたものを…何にせよ真未は深馬の中にあるって事なんですよね多分。
▪︎深馬と真未
結局、真未は深馬の無意識下にある存在なんだろうけど、どうしてかそれだけではない気がする。視点が深馬の意識に寄ってしまうからかな。
真未は美優ではなくて、深馬だから、あれだけ強い衝動を持っていたのかなとおもう。
そうか、あれはかつての深馬が持っていたエネルギーであり衝動なのかもしれないな。創作への熱。
それまではそのまま深馬として表出させられていたものが、深馬の自我によってどんどん深層に押し込まれていってしまって、だけどそれではバランスが取れなくなってきたところに現れたのが真未とか。それだけではないと思うけど。
自問自答、深層心理、自我、自分を誘うもう1人の自分…(一瞬頭をよぎるEscortのMV)(見直そ…)
深馬は絵を辞めたかったと真未は言っていたけど、本当にそうなんだろうか。
自分の気持ち、答えなんて見つかるものじゃなくて、辞めたいけど辞めたくない、描きあげたいけど描きあげられない、どちらに傾こうが時は進んでいくし、どちらが正解というわけでもないし、どちらに進んでも幸せな確証はないもので。
結局今の深馬は絵を辞めて、杏奈との時間を幸せに過ごしているけれど、私はまた描くと思うんですよね、深馬は。アーティストとして。多分辞められない人だと思う。杏奈と別れたら絶対描くよ…杏奈は白だから……
アートってすごくしんどいものだと思うんです。産みの苦しみというか。
理論なり技術なりはあるけれど、結局作品をどうにかできるのはアーティスト自身の " 何か " なんだろうなというか。そういうところしんどいよね。
▪︎作り上げたものを世に出すということ
深馬が描き上げられない理由、
先述の通り、どちらかというと作品を世に出すことは「産み出す」ことだと思っていたので、それが「死ぬこと」とは思いもよらなかった。
確かに作品が自分の手の内にあるうちは、変えることも出さない選択をすることも出来るけれど、出してしまったが最後、自分の手から離れて、自分の意思ではどうにもならないところへ行ってしまう。
満足行くものを作り上げられればいいけど、どう足掻いてもそこまでは行けず、かと言って妥協したようなものを出すのも許せず、結局は中途半端、途中まで。とも考えられる。
それともゴールが見えてて、それでもそこに行きたくないんだろうか、ある意味子離れ出来ないというか、終わらせたくないというか、もしくは自分をさらけ出すことに不安があると取るか。
アーティストではないから想像することしかできないし、多分こんな言葉にして説明できるようなものでもないと思うんだけど…。
しっかりと分かるということは、自分で言語化出来るということだと思っているので、こう…分かりたいけど分かるわけないからな…どれだけ言葉にしても足りないんだよね。
ただ、「どれだけあがいても最後のかたちはもう決まってる。変えられない。」からすると、深馬はゴールは見えてるけどそこに行けない後者だし、「こう描きたかった」ように真未が完成させるということはやっぱりそういうことよね。
ただ一方でフライヤー、HP諸々にある「滲むゆくえは知らないかたち。」というテーマに対してはどう答えを見つけようかと探している途中です。人生かな。自身かな。
こう、やっぱり、創作者って余りにも無防備だなぁと思うことが時々あって。まぁ加藤さんの著書を読んでいるときなんですが。
作り出したものは確実に自分の中にある言葉であり表現であり、それを人様の目に見えるところに出すって並大抵のことじゃないなと思うんです。顔が出ていれば尚更。
だからその点でもグラフティはやりやすいよなぁ。いや、わからないけど。
「それが自分に出来ることだった」と言うけれど、やっぱり自分の名前で、責任で、色眼鏡で見られることもわかっていて、それでもなお作品を世に出した加藤シゲアキはすごいと思うし、しっかりとそれを続けて、今度は作品が先に歩いていくようになった今を観ていて本当に尊敬しかないと心から思います。いつもシゲ〜☺️☺️🥰みたいな顔してて申し訳ないな。仕方ないじゃん可愛いんだもん😌
(話が逸れました。)
▪︎深馬と滝川
現実の世界線の話として、
• 深馬は自分で作品を壊した
• グラフティはアートプロジェクトの一環
• 滝川はプロジェクトの統括的位置で、画家の夢を叶えるために海外へ
深馬が自分の作品を壊すまでは分かるんだけど、グラフティと滝川に関する2項目だけはどうもまだ飲み込めてなくて。
深馬が無意識の自意識のなかで作り上げたにしては、滝川の葛藤と、深馬とのすれ違いが余りにもリアルすぎるというのが理由なんですが。
どうにもならない気持ち、衝動としてやっていた(と認識している)グラフティをアートプロジェクトの一環ということにするには、確かに滝川に上手く立ち回ってもらう必要があるけど、自分以外の人間が、あくまで自分の意識の中で、あそこまで生々しく感情を持って生きることがあるんだろうか。
滝川の深馬への嫉妬はきちんと現実にもあって、それを奥底では感じてたということなんだろうか。
実際には、滝川は深馬のグラフティの作者になりすましてはいないけど、まぁ自分のプロジェクトに深馬を組み込んで成功を収めたとするなら、深馬と深馬の作品ごと、自分のものにしたと言うことも出来るけれど……
あとあの立派なアーティスト先生がどちらの世界にどう存在しているのかあまり記憶にないので宿題です。
滝川と深馬の関係をもう少し考えながら見てみたいですね。
杏奈はそうなんだけど、そういえば北見も深馬の意識の中には出てきてないんだよなぁ多分。公式の設定段階で北見→深馬の嫉妬は描かれているけど、実際は深馬にも「北見の方がすごい」という気持ちもあって、そういうことかな…(どういうこと)(まだあんまり見えてない)
深馬と北見は、もっと深馬側から考えてみたいですね。北見側からの情報が多いので…。
あとこれはおそらく関係ないけど、北見が神戸就職で原田が札幌(北海道?)なの気になる。北見なのに…(※北見市は道東の都市)
• 染まる、染める、
上下とも白、ナチュラルな衣装だった深馬と、黒のジャンパーの真未。
ある時から(ここの確認も宿題)深馬は黒の服を着るようになった。
風呂上がりの真未は白の服。
入院中の深馬はグレーのパーカー。
退院後はまた白の服。
1番最後の真未は白のワンピース。
この衣装の移り変わりが深馬と真未の関係性をあらわしているんだろうなぁとは思う。
特に深馬が黒い服になった瞬間に、ハッ…変わった…深馬変わった…となったのでそういう意図はしっかりあるんだけど、もっと読み込みたいな。(一瞬だけ黒だ!黒もカッコいいな⁉︎⁉︎って思ったのは秘密)
おそらく、深馬が真未に染まったときに黒い服になったんだろうけど…
深馬のもともとの色は白なのかな、多分。
最後は上に白を塗ることで(杏奈ともとれる)、おそらく普通とされる深馬(アーティストに傾いていない状態)に戻ったけど、でも深馬のキャンバスには確実に他の色だった過去は残ってて、元の白ってわけじゃない。でも白でいることが幸せとも分からないよね。
いやでも元々が真未と取ることも出来るんだよな…。入学当初、杏奈と会うまでは描きあげていたわけだし…。(私達が見ていた)深馬と真未がどっちが深馬の本質かと、明白に分けられるものではないしな……表出しているものが真実か、深層にあるのが真実か、そもそも真実ってなに。
▪︎腕にスプレーを掛ける行為
正直わからない。(素直)
深馬と真未の繋がりではあるんだけどなぁ…
汚してるのではなく洗っているの真意ってなんだろう。
スプレーの塗料が何の隠喩なのか分かるようで分からなくて分かるようなものなのかも分からない 見つかるかな…?(がんばれ)
自分で自分を染めてるって要素はあると思うんだけど…
美優も真未も風呂上がりにスプレーを隠されてパニックになるけど何故スプレーをしないと落ち着かないのかという点はわからないし、美優に至っては幼少期に描いていた絵は鉛筆のスケッチだったわけだし、腕に描いていたのは黒のマジックのイラストだったわけで、いつからスプレーに、そして色に拘るようになったのかっていう背景もある。
風呂上がりの真未は最後を除いて、唯一白の状態で、だからこそ余計にスプレーがないとダメだったのかとも思ったり…… でもこの色じゃなきゃダメということに対しての拘りは分からないな…
そもそも何で腕なんだろうな…内面と表現を中継する器官だからかな…
▪︎油画とスプレーと色彩と
染色と聞くとどうしても染物が浮かぶので水溶性のイメージなんだけど、
油画もグラフティも色を塗り重ねて描くもので、なんで水彩画がモチーフじゃないんだろう
色彩の層は積み重なっていく時間…?重ねることは出来ても、戻すことも変えることも出来ないもの…
あと、舞台上で深馬は真未のいない時間に色を使っていないし、モノローグでもずっとモノクロだったから、真未と色彩は切り離せない要素ではあると思うんだけど…。
染まる、滲む…。
まぁ全てはっきりと分かってしまったらそれはそれでなんか違うとも思う(し、分かるようなものじゃない)のでこう考えてるのが面白いんですけどね…。
と、こんな感じで初見の感想はこんなところです。
はぁ〜難しい!!!けど面白い。
これは割と毎回だけど、今よりもっと人生経験積んだ数年後に観たら(読んだら)、違う見え方だったり感じ方するんだろうなと思うんだよなぁ。加藤さんの書く人間は難しい。これはあくまで今の私の限界で、今の私の受け取り方なんだよな…まだまだ未熟なもんよ。
終盤に今まで正と思っていた事をトントンひっくり返されて、観終わってから落ち着いて振り返って分かることが増えていく。けどそれでも分かりきらないところもあって…まだまだ考える余地がたくさん残されてるんだよなぁ…。難儀だ…。
もう少し整理してまた観に行けたらと思います。
また違うものが見えてきたらいいな。
ところで考えるところがありすぎて、えっち〜とかそれどころではないというか、そもそもそういうもんでもないというか、普通にいろいろ苦しくならなかったですかね…… すごいしんどかったですよ…… だからな…そういう話がひとり歩きしていくのはすごく嫌だ……